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「井手ン口」徳冨蘆花著


井手ン口近影



   「井手ン口」最近の写真です。






 脾弱い我儘ッ子であった。学校に行くのが嫌で、よく頭痛にかこつけては途中から帰った。学問も嫌であったが、一つは学校が遠かったのである。
 熊本の町と東南の郡部を割って白川が流れる。郡部を潤す為に、白川の水を分って弓形の大井手が流れ、大井手の水を分って一、二、三の井手が詫麻野を流れる。彼が家は一の井手の頭にあった。学校は白川の下流一里弱の辺にある。彼が学校へ通ふ道の初三分は大井手に沿ひ中五分は白川と共に下り終の二分は場末の町であった。雨、雪、炎天の登校、否其れよりも帰りが晩くなる時の苦痛--彼は井手ン口を通らなければならなかった。
 白川から分かれた大井手が三つの小井手を生み終わってまた白川に帰る場所が、井手ン口すなわち井手の落口で、古来の死刑場である。彼が極の幼時には、斬罪があると云ふと、彼が祖父の隠居なんどは弁当もたせて見物に出かけたものだ。彼も僕の肩につかまって、竹矢来のぐるりに真黒にたかる見物の間から、創手が柄杓の水かけた刀を白紙で拭ふて朱鞘にをさむるさまを見た。大きな角柱に罪人を倚らせ、柱の後に大法碼をぶらさげた麻縄で、長いことかゝって絞め殺すのを見たこともある。井手ン口で斬った首は、毎も白川の長六橋の下に梟された。三叉に立てた青竹の上に、藁で髻を結った生首の二つも三つも梟してあるのを、彼も橋の上から見た。眼を瞑った真蒼な顔を川風にそよぐ鬢の毛がはらりはらりなぶって居た。
 彼が学校に通う頃は、死刑の公開も止んで、井手ン口に最後に建てられた新式黒塗の絞首台も空しく風雨に曝されて居たが、井手ン口は彼にとって何時までも井手ン口であった。
 死刑場のつゞきに非人小屋がある。道の他の一方は古墳新墳累々たる一面の墓場で、夏の頃は月見草の花が晝は赭くうなだれて居た。何かの事で帰りが晩くなり、暮れて此処を通ると白川の川瀬の音がさあさあ鳴る。非人小屋の火光がちらちら漏れる。彼は下駄をぬいで、跣足になり、踵を歿する沙路をあがきあがき走った。
 井手ン口をぬけると、白川に出る。一方は土堤、一方は川、川ははるかに崖下を流れる。代継八幡の下を過ぎて、道は川近く下って来る。川向こうに寺が見える。西岸寺といふのである。川幅は三四十間もあらうか。昔から死刑囚が熊本中を引きまはされて、長六橋を渡り、井手ン口をさして此処まで来ると、西岸寺の方に向かって合掌念仏したものである。其時西岸寺の和尚が彼岸にあらはれ、罪人の為に川越しに引導を渡すのであった。学校に通ふ彼は此処を通ると毎も川向うの寺を眺め、それから足下にごろごろした小石まじりに落ち散った白い赫い茶碗土器の破片に眼をとめた。死刑囚は此処で親戚故旧と永訣の酒酌みかはし、物食ひなどする例となって居た。茶碗土器の破片は訣別の記念である。然し此処から井手ン口までは四五丁に過ぎない。屠所の羊の歩みと云ったって、何程かゝるものぞ。井手ン口の仕置場で、斬ると罪人の頸から今飲み食ふた酒やら飯やら血もろともにどくどく出ると云ふことであった。
 江藤新平が佐賀で梟首になった年から、西郷南洲の一周忌近くまで、彼は此処の道を往復して学校に通った。